コーチング学発展に向けての道標

日本コーチング学会理事・国際委員会
青山 亜紀

· コーチング学にのぞむ,総合知,理論と実践

 近年日本では、様々な知を融合させて諸問題の解決を図る「総合知」活用の必要性が叫ばれています。したがって、スポーツの「練習と指導」に関する問題を、「実践知」と「科学知」の統合によって解決を目指す日本コーチング学会における活動は、スポーツ科学の様々な分野の中で重要な役割を担うことになるでしょう。コーチング学のこれからの発展に向けてのヒントが、東欧圏におけるスポーツ科学の発展史の中に垣間見ることができます。

 人間の運動という複雑な現象の解明を目指すスポーツ科学では、「総合知」の先駆けとなる理論が冷戦後の東欧圏においていち早く創出されていました。1960年代に構築された旧ソ連の「アスリートの準備における一般理論(Общая теория подготовки спортсменов)」です。

broken image


 この理論については、スポーツトレーニングの方法論を研究対象とする「トレーニング学」として認識されることが一般的であるかもしれません。しかし、「The general theory of athletes’ preparation」という英語表記からも明らかなように、この理論は、スポーツのトレーニングの方法のみを検討するものではなく、最重要試合における最高の結果達成を目的とした「アスリートの準備プロセス構築の全体像」という非常に多岐にわたる事象を研究の対象とした学問なのです。したがって、その研究対象となる現象やプロセス、そしてそれらの間のつながりには例外的な事例が生じることも多く、一元論的な(決定論的な)理論では解決することが困難であることは至極当然であるといえます。そのためこの理論では、異なる学問分野や科学的アプローチの枠組みの中で蓄積された膨大な経験的・理論的知識を幅広く取り入れて解決に至るという方法を採用しています。特に、自然科学偏重主義が主流であった当時の理論構築の傾向に対し、旧ソ連の研究者マトヴェイエフは、『例えば、試合という実際に競争相手がいたり、何万人もの観客がいたり、名誉がかかっていたり、というような重圧は実験室では再現できない。試合という特別な場における問題を解決するためには科学知だけではなく、非常に具体的な内容を取扱う必要性がある。』と述べ、現場の経験から獲得される知である「実践知」の重要性について、研究当初から再三にわたり指摘していました。

 またこの当時、旧ソ連には多くの医学・生物学分野における著名な研究者がいましたが、ソ連の国際スポーツ舞台への参入やオリンピックムーブメントも相まって、国家のエリートスポーツ政策における科学的研究課題は、アスリートの実践的なトレーニングと密接に関連したものが中心となりました。そしてその研究対象は最高レベルのトップアスリートとされました。その結果、彼らの研究活動はスポーツ実践における現実的な要求や課題を解決することに注力されていき、理論と実践の結びつきが強化されました。

 以上のように、学際的アプローチによって学体系を構築するに至った旧ソ連の「アスリートの準備における一般理論」は、スポーツ科学の発展史の観点からみると、自然科学に偏重した欧米のそれとは異なり極めて特徴的であり、「総合知」の先駆けの理論であるということができると思います。そして、「理論と実践との乖離」という古くて新しい問題を解決し、これからのコーチング学発展に向けた重要なヒントがこの理論の中に隠されている可能性を感じています。

 

broken image

青山亜紀(あおやま あき)

日本大学スポーツ科学部 教授 日本陸上競技学会 理事