コーチング学の発展に求められる「科学的態度」とは

日本コーチング学会理事・社会への情報発信/広報委員長
森丘 保典

· 理論と実践,個別性と一般性

これまで、四半世紀以上にわたり統括競技団体の科学委員の一員として、ジュニアおよびシニア競技者のパフォーマンス分析や技術・体力の測定評価などに携わってきましたが、そこで得られた定量的なデータ(エビデンス)をレース戦略やトレーニングの最適化に活用するためには、個々の選手の来歴や背景(ナラティブ)を理解しながら支援する必要があることを実感してきました。

個別性(ナラティブ)と一般性(エビデンス)

いわゆる「エビデンス」と「ナラティブ」には明確な相違点がありますが、下図に示すように、各研究法におけるエビデンス(一般性)の強度は上にいくほど強まり、反対にナラティブ(個別性)の強度は下に行くほど強まると考えられることから、この二つの概念には、その強弱によって連続性があるという視点に立つことができます。

broken image

トレーニングやコーチングのプロセスを「時間軸」として捉えれば、競技会のパフォーマンスや定量的なデータ(エビデンス)は、ある時点に固定化された「初期条件」に過ぎません。改めて言うまでもありませんが、人間(のパフォーマンス)は、初期条件によってすべて規定されるわけではなく、環境や他者との「相互作用」により変化するものであるといえます。例えば、“薬効”という初期条件が確定している薬であっても、服用する人間によって正負の効果の現れ方が異なるだけでなく、初期条件がゼロであるはずの偽薬にもプラセボ効果が発現することなどは、いわゆるナラティブのみでの支援可能性を示唆しています。すなわち、エビデンスとはひとつの情報であり、ナラティブの中で活用されてこそ、その機能が発現するといえるでしょう

「ひとつの症状について何例かをまとめ、それについて普遍的な法則を見出すような論文よりも、ひとつの事例の赤裸々な報告の方が、はるかに実際に役立つ」という河合隼雄の指摘は、「個(別性)」の明確化が「一般性」を持つという逆説が存在する可能性を示唆しています。狭義の「科学(的)研究」の枠組みにおいては、いわゆる「事例研究」の説明範囲の狭さ(一般性の低さ)が問題視されますが,一般性の高い知見(理論)が,必ずしも多くの場合に有効とは限らないことにも留意すべきです.比喩的にいえば、「90%の人に当てはまるが、10%しか説明できない(一般性の高い)」理論よりも、「10%の人にしか当てはまらないけれど90%説明できる(個別性の高い)」理論のほうが、コーチングの現場で役に立つことも少なくありません。

要素「還元」主義から「関連」主義へ

私たちは、本来、不可分の全体として成立している競技パフォーマンスを便宜的に「心理」、「技術(戦術)」および「体力」的側面に分けて観察や分析を行いますが、 そもそも観察・分析とは、ある部分に焦点化するために他の部分を無視する行為でもあるため、細分化するほど捨象される要素が多くなることは必然といえます。
 

broken image

 
したがって、様々な研究を通して得られた情報(データ)を新たな実践の最適化に役立てるためには、可能な限り要素を捨象せず、その相互作用(関連性・相補性)を考慮しながら、心・技・体の総体である運動(パフォーマンス)の全体を統合的に理解しようとする「科学的態度」が求められます。この科学的態度の要諦は、要素「還元」主義から「関連」主義へのパラダイムシフト、すなわち「エビデンスとナラティブ」、「個別性と一般性」などの二項対立を超克する研究の蓄積および体系化(理論化)を目指すことにあるといえるでしょう。陸上競技における国内外の一流選手達の年齢別記録の変遷やピークパフォーマンスの到達年齢などを概観すると、そのプロセスが実に多様であることに気づかされます。したがって、先述したような問題意識をもちながら、それぞれの選手が辿ってきた競技発達過程の個別性を明らかにするとともに、その一般性を浮かび上がらせることによって、コーチング実践はもとより、競技者育成・強化システム(環境)の最適化に資する基礎的資料を提示していきたいと考えています。

 
<参考>陸上競技研究紀要(vol.17 2021)【特集企画】陸上競技における実践研究の活性化(陸上競技コーチング学の体系化に向けた実践研究のあり方について)https://www.jaaf.or.jp/about/publish/2021/

 

broken image

 

森丘 保典(もりおか やすのり)

日本大学スポーツ科学部教授、日本スポーツ協会国民スポーツ大会委員会委員、日本オリンピック委員会強化スタッフ、日本陸上競技連盟 科学委員会副委員長、同指導者養成委員会 政策・プランニングディレクター、日本陸上競技学会理事長ほか