新たな「知の認識形式」の可能性

日本コーチング学会理事・編集委員会
内山治樹

· コーチング学にのぞむ,実践知,理論知

 

 四月から十数年ぶりに編集委員を仰せつかった。この間の学会誌を通観して思うことは、個人間の誤差としては捉えられない個々の経験に着目した研究が散見されるようになったことである。そこに通底するのは、実証的な知見や成果が先行研究で検証されていたとしても、知識も具体的な状況の中で意味が発生しなければ活きない、ということであろう。

 ただ、こうした研究を行う際、競技者の経験が「思い込み」や「主観的」ではないことを保証してくれる思考の道筋がその都度問い直されねばならない。一つの個別な経験が他者と共通する何かを持ち得ると確信できる根拠、別言すれば、「科学によって知られたものであっても、まず私の世界から、つまり世界経験から出発して私はそれを知る」とメルロ=ポンティが問いかけた、その答えである。管見のかぎりでは、人の行動、就中行為には意図が、また、身体には意識が宿り、その各部位の動きには冗長性が存するという厳然たる事実を踏まえるなら、身体も含めた「事物の現実」と感覚や主観にかかわる「意識の現実」を併呑した「知」の活用は不可避であると考えられる。

 では、われわれが対象とするコーチング(あくまで「スポーツ」という限定詞において)の領域で、果たして上記の二つの現実を架橋する「知」の構築は可能なのであろうか。

 これまでは伝統的に行為との直接的かかわりの有無に応じて「実践知」と「理論知」という区分が行われてきた。二種類の知が存在し、二つの領域が存在したということは、或る同一の主題内容についてわれわれが二種類の知的態度を採ってきたことを意味している。しかし、実践知であれ理論知であれ、現実に行使されるとき、そこに「或る事実の認識」が含まれている点で主題は共有されていたといえる。ただ、前者の事実認識は単一の「…であった」というアドホックな過程としてのみ体験され、このときの事実認識はわれわれによる認識行為としてというよりも、事実そのものとして認識される。他方、「…である」という「いつでも的」な後者の根拠とは単に語られた根拠でなく「現実に知られた根拠」である。とすると、両者の差異は「事実認識としての知の在り方」の違いではなく、実践知にあっては事実に直面した瞬間に実現され、理論知においては知的欲求に駆られた数多の意識的努力の末にやっと実現される、その思考の道筋の違いであるといえる。

 こうした前提のもと、「技倆や熟練は個人が時間をかけて磨き上げるもので、後進は見て覚えるしかない」(田中,1952)という言説を覆す、AIとの協働(最近「熟練者の技能をAIで再現する」(永田・武内, 2023)手法が開発された)が今後ますます進展することを考えると、次なるステップは、新たな「知の認識形式」の可能性を信じて、それら二つの「知」の二項対立を「脱構築」していくことであろう。

 「実践知vs. 理論知」というこれまでの「パルマコン」(プラトン)的な扱いを唾棄することで現実を思考する道筋が拓けるなら、この先のわれわれの課題は、意識下で処理される次元に存する「ヴァーチャル」(ドゥルーズ)な「関係性」(身体を動かす原動力はその人の個々の動き(意図や意識)に存する)の究明である。これによって、「事物の現実」と「意識の現実」にかかわる「知」は、まさに「開かれた知」として集積されて他学問分野との交流を呼び込み、単純化できない現実の複雑さを以前より高い解像度で捉えることに貢献するであろう。

 

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内山 治樹(うちやま はるき)
日本体育大学招聘教授、筑波大学名誉教授、博士(体育科学)、公認A級コーチ、日本バスケットボール学会会長、学会賞(スポーツ方法学会2005、体育・スポーツ哲学会2016、体育学会2020)、学生日本一(インカレ2004、選抜2006)