本当に強い・競技力が高い競技者とは、自分の道を自分で切り開くことができる知恵や技量を持ち合わせている競技者であろう。この観点から言えば、競技者が理想に近づけば近づくほど究極的にコーチは必要なくなる。コーチがいつもそばにおれるとは限らないのであれば、コーチなしで戦える競技者が最強だというのが理屈である。種目特性による違いもあるだろう。役割の分担だという意見もあるが、かならずしもそれはあてはまらない。例えば陸上競技の世界では、コーチ一人では競技もコーチングも成立しないが、競技者は一人でも競技できるしコーチを自己に内在することさえ可能である。良識のあるコーチであれば、コーチがおればより良い競技ができるというのは時としてコーチの都合の良い幻想であることを認めなくてはならない。
では本当の意味でコーチの成果とはなんなのだろう。コーチから見ると自分ではない他人である競技者の業績がコーチの業績であるという考えは一般的であるが、コーチが「良い」取り組みをしても競技者が響いてくれなければ無いも同じである。さらにいうと、もし自分のコーチングがなければもっと競技者のパフォーマンスが高まっていた可能性があることを、コーチは謙虚に受け入れるべきであろう。ことほどさように、コーチングを突き詰めれば突き詰めるほどコーチは自己否定の領域に入り込んでいかなければならない。少なくとも人間教育としての意図を持ってコーチングに取り組んでいるのであれば、本来、最終的に競技者が独り立ちできる状態を整えるべくその成長に寄り添っているのである。この価値観のもとでは、競技者を適切にコーチングすればするほど自分の存在は必要なくなるということになる。もうここまで書いて息苦しくなってきた。「自分が競技者の成長を邪魔しているのではないか?」「自分が生きる道を残すために競技者の可能性を狭めてはいないか?」。競技者に深く関われば関わるほどこの思いは強くなる。
競技者の業績がコーチの業績でもあると信じつつ、コーチは常に自分のコーチングが競技者にとって有効であると思いたい。そして競技者はその答えを一番よく知っている。「あの選手は俺が作った」などと声高にのたまう御仁には、一言言ってやりたい。それはあんたが決めることではない。エライ人が偉そうにコーチングを語れるのは、本質でない部分を議論しているからか、自分のことを棚に上げて議論できるからであろう。自分も人のことは言えないけど。散々理想を述べたところで、「で、あんたはどうなん?」と問われた時に一片の曇りもなく返答できる現場人などいるだろうか?そして大所高所からコーチングの評価を行う人は、もはやコーチングの世界にはいないことがほとんどである。明快な答えを得るには、現場を離れ、時を止めて議論せざるを得ないのかもしれないが。
コーチである自分は、グラウンドの草刈りをしている時、一番心が平穏である。これは確実に競技者やチームが望む行動であるし、まちがいなく競技者たちに貢献していることが実感できるからである。ではこのような瞬間で日々のコーチングが満たされることがあるのだろうか。日々グラウンドにしがみつきそれを模索しているが確信に至ることはない。しかも競技者にとって有用でコーチの心を満たすこの草刈り、憾みなしとしないのは、この営みが「コーチングか?」という大きな疑問点と共に「私自身の心の安らぎのため」かもしれないという点である。このことについては自分可愛さから突き詰めて内省するのが怖い。おまけに私の草刈りはバッタやコオロギのみなさんにはすこぶる不評である。理想は立場や時間軸によって変化し、物事には常に裏表がある。理想のコーチとは。。。それ考えるとまた寝らんなくなっちゃうヨ。
大山 卞 圭悟(おおやま べん けいご)
筑波大学体育系准教授 1970年兵庫県西脇市生まれ、筑波大学陸上競技部部長・コーチ、趣味は魚釣りとバードウォッチング