日本コーチング学会の目的は「体育・スポーツの指導実践に関する科学的研究とその発展に寄与し,体育・スポーツの指導実践に資すること」です。目的を達成したと言えるのは,研究者がコーチングに関する新規性と普遍性の高い原理や原則,現象の見え方が変わる視点を発見した時ではありません。実践に資した時,すなわち生み出された知をコーチが活用した時です。コーチング学は研究者とコーチの協働によって拓かれるのです。
合理的なコーチングを行うためには,経験や勘だけに頼るのではなく,実践現場で起こっている現象に科学的にアプローチし,そこで得られた知見を活用する必要があります。知見を生み出す主要なアプローチは2つあります。1つは観察者の視点を持った自然科学的アプローチ,もう1つは行為者の視点を持った人間科学的アプローチです。
観察者の視点から見えてくる知は「どうなっているのか」を説明する理論知です。研究者はその一般化のレベルを高めるために,条件を統制して実験的に調査したり,現象を細分化して数量化したり,多数の標本を収集してその特徴を統計的に表現したりします。しかしコーチングは,複雑な相互関係が入り組み,将来の予測が困難な実践現場で行われますので,理論知が厳密であればあるほど,実際のコーチングが持つ生き生きとした様相や豊かなアクチュアリティーが断片化されてしまいます。
一方,行為者の視点から見えてくる知は「どうやっているのか」を説明する実践知です。研究者は,行為の中で暗黙的に,前意識的に働いている知を理解し,新しい概念や理論を発見しようとします。しかし実践知は,個別事例に密着しているという特徴を持つために,厳密に言うと本人にしか,当該情況にしか当てはまりません。つまり,理論知も実践知も学術的価値を持ってはいても,そのままでは実践の世界に生きるコーチに役立つ情報にはなりえないのです。
熟達したコーチは,分析的思考に頼らず,情況を見た瞬間に精確に把握できます。この能力の獲得には省察が重要な役割を果たしています。省察とは自己の経験を振り返り教訓を引き出す思索です。実践と省察を繰り返すことで,コーチングに関する持論が形成されていきます。その持論は科学的な知見や他者の持論と照らし合わせることで再構築され,自らの信念や価値観にも気づくようになります。しかしコーチが自らの実践を振り返る枠組みは固定化されてしまっていることも多く,特に成功体験を持つコーチは,自身が注目する/注目できる現象を,見たい/見られるように振り返ることが多いです。つまり,自らの行為を省察する態度やスキルのないコーチは,どれだけ意味を持つ理論知や実践知が目の前に現れても,それらを役立たせることはできないのです。
壊れた時計を分解し,修理し,組み立て直す時計職人のように,研究者にはコーチングの実践現場で起こっている現象の構造を理解し,研究成果が実践現場に貢献しうる可能性と限界を示すことが期待されます。またコーチには,コーチング学の知見は実践場面ではなく,自らの省察場面に活用できることを理解し,それは「自分のコーチングに活かせるかもしれない」「目の前の選手にも当てはまるかもしれない」と受け止められる想像力を持ち続けることが期待されます。コーチング学を拓く知の創造と活用には,研究者とコーチのそれぞれに託された役割があるのです。
會田 宏(あいだ ひろし)博士(コーチング学)
筑波大学体育系教授、筑波大学男子/女子ハンドボール部部長、日本スポーツ協会公認ハンドボールコーチ4,ドイツハンドボール協会B級コーチ