個別事例的コーチング研究の必要性

日本コーチング学会理事
谷口 裕美子

· 国際化,理論と実践,研究法,障害者スポーツ

 私はこれまで約30年近く障がい者スポーツ、特に知的に障がいを持った水泳選手のコーチングに携わってきました。これから国内のトップや世界を目指そうとする若手から、パラリンピックでメダル争いをするトップアスリートなど幅広い選手がいます。競技力向上に必要なコミュニケーションや自己表現が苦手な選手に対するコーチングを、どのようにマネジメントすることが効果的なのか、その難しさを実感してきました。


 身体に障がいを持ったアスリートには、物理的にできることと、できにくいことがあります。“パラリンピックの父”とも呼ばれるイギリスの病院の医師ルードウィヒ・グットマン博士(1899~1980)が残した「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」という言葉は、大きな困難に向き合いながらも競技に取り組む選手たちの背中を押し、多くの人の支えになってきました。各選手の泳ぎ方には個性があり、コーチングにおいても水泳の基本的な技術習得に加え、個別性の要素が高いといえます。その意味では、個別事例的なコーチング研究のひとつひとつがエビデンスとして貴重なものであり、それらの積み重ねが一般性理論につながることも少なくありません。

 一方、知的に障がいを持った選手は、身体には障がいを持っていることが少ないため、できにくいことが見た目では分かりにくい傾向にあります。競泳男子において、健常の世界記録を100%とした場合、知的障がいクラスの世界記録は、パラリンピック種目である200m自由形では91.6%、100m背泳ぎでは91.3%、100m平泳ぎでは90.6%、100mバタフライでは91.3%、200m個人メドレーでは90.5%であり、いずれの種目も90%程度に留まっています。

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 コーチングとは相手の話を聴き、観察や質問、提案などを通して気づきを与え、相手が主体的に目標を達成できるように導くことであると考えると、指導者と選手とのコミュニケーション、そして自発性や主体性を支える選手の「考える力」が必要であると思われます。つまり、直面した課題に対する気づき、その課題を解決しようとする工夫、そして目標を達成しようとするモチベーションが必要となります。しかし、それら自発性や主体性が障がいや発達段階によって未熟である場合には、コーチングを行う指導者が選手に気づかせる、あるいは誘導するなど、主体性とのバランスに配慮しながらコーチング内容をマネジメントすることが必要です。しかし、気づきの基準や方法は選手それぞれであり画一的ではありません。例えば、知的に障がいを持った選手でいえば、視覚的情報による気づきが優位な選手、オノマトペによる気づきが優位な選手など多様性に富んでいます。また、自閉症を伴う選手はこだわりが強く、コミュニケーションや自己表現が苦手な傾向にあります。それ故に、その選手の成育背景や運動経験に伴う身体感覚、内在する気づきや納得感などを、どのように選手自身から引き出すかが課題となります。このように多様なアプローチが必要である障がいを持ったアスリートに対する研究は、決して数多く行われているとはいえません。健常者に比べると、対象者そのものが少ないものの、個別事例的なコーチング研究が数多く行われ、競技力向上につながることを期待しています。

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谷口 裕美子(たにぐちゆみこ)

博士(医学)、山梨学院大学スポーツ科学部教授、一般社団法人日本知的障害者水泳連盟理事/運営委員長、公益財団法人日本パラリンピック委員会運営委員、パラリンピック競泳日本代表コーチを務める